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2011年12月

週末は月曜日まで、、、、、

今週末は大会と重要な業務が立て続きかなりハードスケジュールでした。

もう土曜日のこと忘れかけてる、、、、、、

いかんですね、しっかり備忘録しておきたいと思います。

土曜日は翌日の審査会、大会に向けて中島指導員の審判講習を午前中から行い、午後からの少年部の稽古で実地。

子供たちには組技審査の試合形式でやってもらったのですが、これがまたみんな良い組手をしていました。ヨコミネ式を取り入れ、さらに受身や寝技のドリル、打込みも丁寧にやっていた成果が出たと思います。翌日の審査会が楽しみ、、、、、

そして審査終了後は新木場1stRingへ、着いたら藤澤優作の試合が始まっていて途中からセコンド、しかし時すでに遅し劣勢を覆すこともできず判定負け、野本一貴は一回戦はシード、二回戦を危なげなく勝ち進み決勝進出。

しかし決勝戦はアームロックで一本負け。二人とも残念な結果になってしまいましたが、まだまだ発展途上来年はさらに頑張ってもらいたいです。

小金井に戻り翌朝早いからすぐに帰ろうと言っていたのにけっきょく3時まで打ち上げ、まあ試合のあとは良い話ができるのでヤムナシです。

そして日曜日、朝から関東地区審査会、及び一般部の関東地区交流試合。

うちの子供たちはいつもより声も出てましたし、基本稽古移動稽古のクレームはほとんどなかったです。

組手審査もみんな良い成績でした。今年一年小金井道場も大久保道場も少年部はかなり伸びてきた実感があります、来年3月の大会は楽しみになりそうです。

午後は一般部の交流試合、こちらは小山指導員のBlogに詳しく書いてありますが、試合数は少ないけどとても質が高かったです。

私的には今年一年間、一般道場生では一番稽古を真面目に通って来ていた武田の試合が印象的でした。

試合は僅差で負けてしまいましtが、技術の上達があきらかにわかる試合で本当に良かったです。

稽古量は嘘をつきませんね。

そして大会終了後、都内某所に移動、今後の連盟の方針を決めるとても重要な会合がありました。

内容はまだ明かせませんが、今後の武道界に影響を及ぼすものでしょう。会議終了後も席を囲んで有意義な話がたくさんできてついつい気分がよくこの日も帰宅は深夜4時、、、、、、

そして月曜日いつもはオフにして雑務をしているのですが(オフじゃないじゃん、、、、)、この日はディヤーナ国際学園の面談、打ち合わせがありました。

こちらも新たな計画に向けての良いお話ができたと思います。

道場運営、連盟理事、プロ格闘技マネジメント、ディヤーナ国際学園、軸は一緒といえ4つの似て非なる仕事を同時進行で行なっていくのは本当に大変です。

しかし何年もやってきたこと全てが、ようやく花開く予感がします。

そういえば常設道場の鍵をもらってからそろそろ丸5年、何事も継続は力なりですね、、、、、

押忍

追悼「19のままさ」

今回は道場とは全く関係ない私的なBlogです。

本当に本当に今年は悲しい報告が多い、また一人大切な友人を失ってしまいました。

井田良行

名は体を表す、この言葉はコイツのおかげで嘘だと知りました。一緒に悪いことばっかりしてましたから(苦笑)

地元の悪友仲間で、中学の頃同じクラスになりバンドを組んだときからのつきあい、そりゃもう一緒に飲んで暴れてハチャメチャしてました。

仕事も彼の親戚の会社でバイトを一緒にしたり、ただの土木作業員のバイトだとついていったら知らずに組関係の事務所で雇われてたり、、、、、思い出は書きたくても書けないことばかり思い出されます、、、、、

高校生のとき親父さんが心臓の病気でお亡くなりになって、本人も心臓が悪いというのはうっすらと知っていました。

 

記憶力のあまりない私ですがこの日だけは忘れもしません、1991年12月29日。

19歳の年末とても寒い日でした。

埼玉県の宮沢湖に10人くらいで連れだってワカサギ釣りに行ったのですが、全く釣れずつまらなくなってみんなで自動販売機で買ったワンカップ大関を飲んで体を暖めていました。

そのとき誰かが「ニジマス釣り場があるじゃん」と言ったのです。

見ると湖の角に釣堀があって、しかも年末でお休み。まわりには我々以外誰もいません。

「行くか??」

それまで魚が釣れず腐ってた私たちは歓喜の声を上げ、みんなでクーラーボックスを持ち金網を乗り越えて、ニジマスを盗むことにしました。

四角い囲い網の中にうようよいるニジマスを3つのクーラーボックスがいっぱいになるまで詰め込んで、これで帰って魚焼いて飲み会だ!!と引き揚げようとしたとき、彼だけがまだ一人で魚をすくおうとしています。

すでに金網の外にいた私は「早く逃げるぞ!!」と声をかけたのですがどうも様子がおかしい、、、、、まわりの人間も茫然としています。

瞬間的に「ヤバい」と感じて、慌てて戻ると、顔が真紫になって倍ぐらいに膨れ上がり泡をブクブク吹いて痙攣を起こしてるではありませんか、、、、、、チアノーゼ、アントニオ猪木がハルクホーガンに後ろからアックスボンバーを喰らって倒れたときと一緒、いやそんなレベルではありません。目の前で特殊メイクのホラー映画を見ているみたいでした。ケンカで血だらけで人がのびるとこは何度も見たことありましたが、あんなに体がびくんびくんいって「ウーッ、ウーッ」って本当に苦しそうなのは初めてで、そこからはもう本当に地獄絵図。

とにかく凍りついて誰の口からも声も出ない、、、、まず自分の中で「落ち着け、落ち着け」と言ってから「救急車!!!!!」と叫びました。

当時まだ携帯電話なんてものはありません。

湖の入口の公衆電話まで後輩を走らせて、保健体育の時間でやったうろ覚えの救命活動、とにかく必死でした。

人口呼吸をしようにも歯がガチガチ言って、口も開かない。舌を飲んだらいけないと二人がかりで口をこじ開けて指を突っ込んだら物凄い力で指を噛まれて血だらけ、とにかく声をかけて心臓マッサージ、ベルト緩めなきゃと思ったら大量の失禁、もうできることはなんでもやりました。

どれくらい時間が経ったのでしょうか、ようやく救急車が到着。完全に死に体になっていた身体をみんなで必死に金網から上げて私は一緒に救急車に乗りました。

「心停止状態、緊急!!!」

「私の腰を抑えてください!!!」

と救急隊員に言われて、物凄いスピードで走る救急車の中で転びそうになりながら心臓マッサージを繰り返す。心拍数を表す画面はピクリともしません。手がポロンとベッドから落ちたのであげようとしたら氷みたいに冷たい、10分以上16号線を走ってようやく石心会病院というところに着きました。

救急車をバックでつけて、ドアを開けるとすでにお医者さんがオペの姿をしていて、両手に映画やドラマで見たことのある電気ショックをかけるやつを、「バチーン、バチーン」って

家族に電話で知らせて、それから何時間も病院の待合室にいました。

お兄さんが私たちのところに来て

「みんなのおかげで奇跡的に命は取り留めたけど、もう意識は戻らないかもしれないらしい、、、、」

通常脳に酸素が1分以上運ばれないと脳細胞は死ぬというのに15分以上心臓が止まったままだったのです。

とにかくみんな泣いて泣いて、、、、、、

でも可能性がまだゼロじゃない、地元の仲間に集合をかけて大晦日、高幡不動にお参りにに行きました。

みんなで有り金全部、賽銭箱に入れてとにかく手を合わせて願掛け

そして三元日を過ぎた1月4日奇跡は起きたのです。

そのとき私は本気で願えば物事は何でも叶うということを知りました。

 

 

心臓にペースメイカーを入れて一年間の入院を経て復活した彼は、酒もタバコも○○○も止めず、不自由になった片足をひきずりながら相変わらずムチャクチャしてました。

カマロ米軍基地突入事件、飲酒運転逆切れ突破事件、とてもこのスペースには書ききれないほどのエピソードと伝説を残し、その後も大手術をしては復活、あんなに身体が悪いのに生命力があるやつなかなかいないんじゃないですかね、、、、、、

いまどきの言葉で言えば、中二病とかDQNとか言われてしまうかもしれませんが、しかしとにかくまっすぐで純粋で仲間のためならこの年になっても本気で命を張るようなやつでした。

 

 

あれから20年、最後に会ったのいつだったのか思い出せません。

六本木の店に遊びにきたときだったか、道場の設立記念パーティーだったか、、、、

またいつでも会えると思っていながらだいぶ会ってなかったんです。

最近忙しさにかまけて人と会うということを大切にしていなかった自分が悔やまれます。

葬式のとき、棺桶に空手着と黒帯が入ってました。

そういえば何年か前に「俺も空手始めたんだ」と嬉しそうに話していたのは覚えています。

きっとめいいっぱい体を動かして若いころみたいに暴れたかったんでしょう。

 

久しぶりに地元の仲間が集合しました。

あのころつるんで悪さをしてた連中、今経営者だったり会社でも上の方で活躍してたり、私も含めて好きなことを相変わらずしています。

もしかしたら自分だけ体が不自由で、仕事もできずはがゆい思いしてたのかなと考えるとやるせない気持ちになります。

 

出棺のときに本人が大好きだったという浜田省吾のこの曲、とても心に沁みました。

若い頃は「ダサい曲聞きやがってセンスねえなあ、、、、」とかからかっててましたが、本当に良い曲だと思いました。

本当に思ったよ

追悼の意を込めて、、、、、